「――正義を求める声あらば、どこへでも！」

言い切るより先に、足が空を踏んだ。

え、と思ったときにはもう遅い。景色がひっくり返る、というのとも少し違う。さっきまでそこにあったものが、横からずるっと剥がれて、知らない風景がそのまま差し込まれてきたみたいだった。

次の瞬間には、草の上に立っていた。

宇沢レイサは、そのまましばらく動かなかった。

風が頬に当たる。草が擦れる。土っぽい、少し湿った匂いがする。そういうのはちゃんと本物なのに、目に入るものだけがどうにもおかしい。空は青いくせにやけに薄っぺらいし、雲は白い紙を切って貼ったみたいに四角い。木もそうだ。山もそうだ。遠くに見える羊まで、箱みたいな形をしている。

「……何ですか、ここ」

声に出すと、余計にいやだった。

夢ではなさそうだった。夢ならもっと曖昧だ。こんなふうに草の匂いまでしない。足元だってちゃんと固い。固いくせに、何も信用できないのが気持ち悪かった。

レイサは唇を引き結んで、それから小さく咳払いをした。

黙っていると変な汗が出そうだった。喉の奥がひっかかる。何か言わないと、立っている感じがしない。

「こ、これは異常事態ですね！　ですが問題ありません！　トリニティ自警団の精鋭にして、みんなの――」

そこで止まる。

最悪だった。

みんなの、何だったか。
騎士だったか、審判者だったか、そのへんの何か。さっきまで頭のどこかにあった気がするのに、こういうときだけ急に消える。誰も聞いていないのに、ひとりで滑ったみたいな気分になるのがいちばん嫌だった。

「……宇沢レイサ、参上です」

小さい。
今のはだいぶだめだ。やり直したい。でもここで仕切り直して、もう一回名乗るのもそれはそれで変だ。

眉を寄せた、そのときだった。

背後で草がしゃり、と鳴った。

振り向く。

緑色の何かが立っていた。

人に似ているようで、ぜんぜん似ていない。縦に長いだけで、顔もついているのに顔に見えない。目鼻の位置はあるのに、そこに何も乗っていないみたいな、妙な気味悪さがある。じっとこっちを見ていた。いや、見ているんだろうけど、視線が噛み合わない。

レイサの手は、もう勝手にショットガンへ伸びていた。

「止まりなさい！　その不審な挙動、見過ごせません！」

声が出る。
それだけで、喉のあたりが少し戻る。

「名乗りなさい！　返答次第では――」

緑色の何かが、一歩、前へ出た。

無言。

無言で来るな、と思った。
こっちはちゃんと順番を踏んでいるのに、そっちはそれを丸ごと無視するんですか、という腹立たしさが先に来る。怖いのをごまかしているだけだと、自分でもわかっていた。

レイサはショットガンを肩に当てた。頬に金属の冷たさが触れる。見慣れた重みがそこにあるだけで、さっきまで浮いていた足元が少しだけ戻る。

引き金を引いた。

音が、変だった。

でかい。耳が痛い。火薬の匂いもちゃんとする。肩にもがつんと来た。そこまでは知っている音のはずなのに、撃ったあとの響きだけが妙だった。山に返るでもなく、街に吸われるでもなく、平たい板にぶつかってそのまま散ったみたいな、薄い返り方をした。

緑の何かは吹き飛んだ。黒い煙みたいなものを一瞬だけ残して、消えた。

「……え」

思わずそれだけ漏れる。

倒した、でいいのだろうか。
いや、そんなことより。

音に引かれたみたいに、少し離れた草むらがいくつも鳴り始めた。

ひとつ。
ふたつ。
もっと向こうでも。

嫌な感じだった。

レイサは舌の裏に残った火薬の苦さをのみ込んで、その場を走った。後ろは見ない。見ると、いる気がするからだ。何が、とは言いたくなかった。もう一発撃てる。撃てるけれど、それで全部どうにかなるとは思えなかった。

丘のほうへ向かう。高いところ。見渡せる場所。そういうところなら、たぶん少しはましだ。

走りながら、靴の底に草がひっかかる。土が固い。たまに妙に段差がきつい。見た目の単純さのわりに歩きにくくて腹が立つ。息が上がる。喉が熱い。耳の奥だけ、さっきの発砲の余韻で少し詰まっていた。

何とか上までたどり着いて、振り返る。

月が出ていた。
月まで四角い。
そこは丸くしておけばよかったでしょう、と雑な文句が頭に浮かぶ。

草原の下、暗くなりかけた平地に、また緑色の影が立っていた。さっきのと同じ形。いや、同じというのも変だ。全部同じ顔に見える。並んでいるわけでもないのに、似すぎていて気味が悪かった。

その向こう、白っぽいものもいる。細い。人の骨を乱暴に組んだみたいな立ち方で、手に長いものを持っていた。よく見えない。でも、見えてほしくもなかった。

「どうなってるんですか……」

口からこぼれた文句に、返事はない。

風が強くなる。

冷たい。首筋に入ってくる。草の匂いも、土の匂いも、さっきより濃い。日が落ちると、匂いだけが近くなるのが嫌だった。

レイサは丘の上から周りを見た。

何もない。

木はある。草もある。水も、崖も、羊もある。けれど、それだけだ。道がない。建物もない。人の気配がない。誰かがここで暮らしている感じが、ひとつもない。煙もないし、明かりもないし、遠くで鳴る機械の音みたいなものもない。

そのことが、じわじわ来た。

「……冗談ですよね」

小さく言ってみる。

空は黙っていた。

遠くで羊がめえ、と鳴いた。
その声だけが妙に平たくて、録音を流したみたいに聞こえた。

レイサはショットガンを抱え直した。銃床が腕に当たる。冷たい。少し安心する。こんなものに安心しているのもどうかと思うけれど、いま手放したくはなかった。

とりあえず、高いところから下りる。じっとしていても暗くなるだけだ。どこでもいい、誰かがいそうなものを探す。人がいなくても、人がいた跡くらいはあるかもしれない。そういう、あまり期待しすぎない程度の期待にしがみついて、レイサは丘を下りた。

歩く。

草を踏む。しゃ、しゃ、と乾いた音がする。
たまに石に靴先が当たる。
風が止むと、急に自分の足音だけ大きくなる。

しばらく行くと、小さな池があった。水は変に静かで、空の色をそのまま写している。のぞき込むと、自分の顔も映った。いつもの自分の顔のはずなのに、背景が違うだけで、急に頼りなく見える。

レイサはすぐに顔を上げた。

池の向こうに、白い羊がいた。

さっき見たやつだろうか。
そんなわけない、と思う。
でも、どこがどう同じなのかは説明できないのに、さっき見たやつと同じ顔に見えた。

「……まあ、羊なんて全部似たようなものですよね」

言ってみる。
その言い方が、自分でやけに空っぽに聞こえる。

さらに歩く。

木が並ぶ。
その並び方が少し嫌だった。似たような高さ、似たような間隔、似たような葉の付き方。自然なのに、妙に几帳面だ。誰かが配置したみたいで、森のくせに息苦しい。

そこでまた、草むらの奥で何かが動いた。

レイサはショットガンを構える。
少し待つ。
何も出てこない。

風だけが吹いて、葉の影を揺らす。その揺れ方まで、なんだか同じに見えた。

「……いたら出てきなさいよ」

強く言ったつもりだった。
でも、声は少しだけ細かった。

返事はない。

レイサはそのまま歩き続けた。
日が完全に落ちる前に、何か見つけたかった。家でも、柵でも、焚き火でもいい。誰かのものだとわかる何か。靴の跡でもいい。土の削れ方でも、折れた枝でもいい。

なのに、どこにもなかった。

草原を抜けても、また草原だった。
森を抜けても、また似たような森だった。
小さな崖を越える。向こうに出る。見たことのある池がある。白い羊がいる。

レイサは足を止めた。

さっきの池だった。

……と思った。
でも、そんなわけはない。池なんてどこも似ている。羊も似ている。木だって同じような形ばかりだ。そういう世界なんだろう。そういうだけの話だ。

そういうだけの話、のはずだった。

レイサは池の縁まで行った。
水際の土に、何か落ちている。

しゃがんで見る。

赤い薬莢だった。
さっき、自分が撃ったショットガンのもの。

レイサはしばらくその場で動かなかった。

風が吹く。
池の水面が揺れる。
羊が鳴く。

その全部が、急に遠くなった気がした。

「……いや」

声が乾く。

「いや、そんな……」

同じところを回っただけ。
たぶんそうだ。
森の中で向きを間違えた。丘を下りて、曲がって、また戻ってきただけだ。ありえる。じゅうぶんありえる。自分でも思っているよりずっと遠くへは行けていなかっただけだ。

レイサは薬莢を拾った。まだ少しだけ火薬の匂いが残っている気がした。勘違いかもしれない。ポケットに押し込む。そうしておかないと、ここに置いたままだと、また次に見つけたときにもっと嫌な気がした。

歩く。

今度はもっとまっすぐ行く。
そう決めて歩く。
池は見ない。羊も見ない。木の並びだけ見て進む。

なのに、しばらくして開けた場所へ出たとき、そこにあったのはまた池だった。

白い羊がいた。

レイサは目を細めた。
足が止まる。
息が少し浅くなる。

「……違いますよね」

誰に聞いているのか、自分でもわからない。
答えるものはもちろんいない。

今度は池まで近づかなかった。近づいたら、また薬莢がある気がしたからだ。あっても嫌だし、なくても嫌だった。

そのまま向きを変えて歩く。

草が擦れる。
ショットガンのスリングが肩に食い込む。
重い。いつもの重さのはずなのに、さっきから妙に腕へ来る。

暗くなる。

本格的に夜になって、空の青はもう残っていなかった。四角い月だけが白く浮いている。その月明かりが変に均一で、影までのっぺりして見える。遠近感がおかしくなる。近いのか遠いのか、よくわからないまま歩いている感じがずっとあった。

どこかで、低い呻き声みたいなものがした。

止まる。

聞き耳を立てる。
風だったのかもしれない。
違うかもしれない。

もう確認しに行く気にはなれなかった。

レイサは適当な木の根元まで行って、背を預けた。樹皮はざらざらしている。そこだけ現実っぽかった。ショットガンを抱える。冷たい金属の感触が掌に張りつく。手汗で少し滑る。握り直す。

「……誰か、いませんか」

出してしまってから、目を伏せる。

返事はなかった。

当然だ。
当然なのに、その当然さが胸のあたりへじわじわ溜まる。
そこで初めて、今日一日、自分がまともに誰とも話していないことに気づいた。名乗ってばかりだった。叫んで、文句を言って、独り言をこぼして、それだけだ。返ってきた声がひとつもない。

そのことが、妙に重かった。

レイサは膝を立て、その上へ肘を乗せる。木の根元の土は冷えていた。湿っていて、制服の裾へじわっと染みてくる。気持ち悪い。でも立ち上がるのもしんどかった。

少しだけ休んで、それからまた歩く。
そう決める。
決めるだけなら何とでも言える。

「……宇沢レイサ、です」

ぽつり、と漏れる。

張りのない声だった。
いつもの名乗りから、飾りのところだけ剥がれたみたいな声。

「トリニティ自警団で、その……」

そこで止まる。
続かない。
何を説明したいのか、自分でもよくわからない。

風が吹く。

木の葉が鳴る。
少し離れた草むらでも、何かが動く。
それでも近づいてくるものはない。

レイサはゆっくり立ち上がった。

ここにいても、朝になる保証はどこにもなかった。
朝になったところで、出口があるとも思えなかった。
でも、立っていないよりはましだった。

ショットガンを抱え直す。
ポケットの中で薬莢が小さく当たる。
から、と鳴るほどでもない、かすかな感触だった。

レイサは歩き出した。

草原を抜ける。
また木が並ぶ。
少し先に、水の匂いがする。池があるのかもしれないと思って、見ないようにした。見たらたぶん、また同じ顔が待っている気がしたからだ。

それでも、歩くしかなかった。

「――正義を求める声あらば、どこへでも」

半分だけ、口の中で呟く。
続きは言わなかった。
言い切ると、本当に誰もいないところまで届いてしまいそうで嫌だった。

月は高いままだった。
風は止まない。
遠くで何かが鳴く。
レイサはショットガンを抱えたまま、見たことのあるような、ないような地形のあいだを、また歩いていった。